一周忌

12月2日は父の一周忌でした。
1年経っても思い出すことは変わらず。

腹水溜まってもう自分で立てもしないのに、まだ治ってないから抗がん剤を打ってもらったと言った電話越しの父の声。

ベッドから起き上がるのもままならず
まともに声も出せない状態で発した言葉。
"こうなると人間憐れね。情けない。"

最後の日、
見舞いに行った帰り際の父の表情。

思い出すと哀しくなる。
でもそんな記憶も少しずつ変化して
忘れていくんだろうなと思うと、
なんだか寂しい気持ち。

どんなに辛くとも
覚えていたいと思うものですね。

ksana.


2020年12月2日
父が、今生を終えました。68歳でした。
癌と診断を受けて、あっという間の1年1ヶ月。

まさかここにこういう内容を書くとは思ってなかったけど、今日は父の自慢と、私の後悔を。

癌と診断を受けた時、既に肺癌が肝臓に転移していて治療は化学療法。
抗癌剤を打てども打てども肝臓に殆ど効かず、暑がりだった父が寒がりになり、毛は抜け落ち爪はボロボロ。味覚がなくなり、美味しくご飯を食べられない。
抗癌剤の種類によっては高熱が出たり、一時は無菌室に入ることも。
最期には腹水が溜まり、黄疸で体も目も黄色くて、自分で歩くこともできない、ご飯を口に含んでも飲み込めない、睡眠薬を飲んでも眠れない、ほとんど声も出ない状態に。
主治医から、治療をやめる選択もあると言われながらも「まだ治ってないんだから、もう1度抗癌剤を打ってくれ」と頼んだんだって父から聞いた時は本当に辛かった。こんなにも生きる意志の強い父が、なんでって。こんなに強い気持ちで耐えて、頑張ってるのに、臓器は蝕まれ、肉体は動かなくなっていく。

私たちが、もう無理だと思っても。もしかしたら、父も無理だと思っていたかもしれないけど、それでも諦めることなく、治すんだと、なんとしても生きるんだと、意欲的だった父。私たちは、側で見ていることしかできなくて、こんなにも頑張っている父にほんの少しでもよいことがあってほしい、楽になってほしいと願う日々。

正直、今回の治療の選択がよかったのかは分からないと思うこともあった。薬が殆ど効いていなかったから、治療をやめて、少しでもご飯を美味しく食べられたほうがいいんじゃないか、たとえ短い期間だとしても、副作用に苦しんで寝てばっかりいるよりも、痛みを緩和しながら、日々を楽しく過ごせるほうがいいんじゃないか、とか考えた。でも父は抗癌剤治療に懸けて、治すと踏ん張り続けた。
食べてももう消化できないのに、食事が出れば「何の栄養にもならんのだろうけど、食べて元気を出さないと」って、一口でも食べようと食事に向かい、自分で起き上がることもできないのに絶対にベッドで用を足すことはしないと言ったらしい。父は最期まで、人の生活を全うしたように思う。

11月9日の誕生日は入院していて、電話で退院したらお祝いしようねって私が言ったからか、看護師さんに「早く退院してケーキを食べないと」って言ったんだとか。
最期の日まで、主治医に会えば、どうにか良い知らせを見つけて自分はまだ頑張れるんだと伝え続け、もう体はボロボロなのに、生きようと、頑張ろうという気持ちでなんとか堪えて、とどまっている姿は、先生からある意味すごいって言われるぐらいで(笑)
そんな父の姿は見てるこっちが辛くなるぐらい痛々しいんだけれど、美しくもあり。
人間臭く、生き切ったって感じかな。
諦めずに、しがみついて、懸命に生きる。

コロナ禍ということもあり、
残された時間が僅かになって初めて私たちは面会を許可された。ある日面会に行くと、殆ど声が出ない状態の中、看護師さんに起こしてもらって父が言った言葉は

「人間こうなると哀れね」
「本当に、情けない」

全然哀れじゃないし、情けなくもない。
こんな状態になっても、苦しさや痛みに耐えて、生きていてくれる。それだけで本当にすごくて、そんなお父さんが大好きだって思ったけど、口にすると涙が溢れそうで言えなかった。

その後、その時のことがずっと気になっていて、泣いたっていいから、言えるうちに言いたいことは言おう。次に面会に行くとき、必ず言うんだって決心したその時、母の携帯が鳴り、呼吸が止まりそうだと。

急いで病院に駆けつけるも、既に息を引き取っていて、結局、言えなかった。
最期は一人でひっそりと、今まで必死にしがみついていたのが嘘のようにあっさりと逝ったようで、父が自分で終えることを決めたんだろうなって感じがした。10分前ぐらいには看護師さんと普通に会話していたらしいし。

なんで呼んでくれなかったのとか、もっと話しておけばよかったとか、どんな最期を迎えたとしても悔やむんだろうけど、やっぱ、言える時に、言いたいこと言わんとね。
父に涙を見せまいと泣かないことを優先したのは、父を悲しませたくないという配慮でもあったけど、思い返せば私たちが泣かなくたって父は悲しそうだったし、父に涙を見せないというのは、想いを伝えることよりも大事なことだったのか?自分の選択が悔やまれる。

私が最後に見た父の姿は、私たちに背を向けて横になった状態で、頭をかかえるように手をあてて、悲しいような、寂しいような表情でいる姿。私が帰り際、「バーイ」と言ったら「バイバイ」と答えてくれたんだけど、弱々しくて、少し違う言葉のようにも聞こえて母が聞き返したら、「バイバイて言っただけだ」と。いつも通りの挨拶だったんだけどなんとなくひっかかって、帰りの車中では、バーイはよくなかったかな?なんて母と話しながら。あの時の表情と、背の高い父が、小さく丸くなっていた姿がどうしても悲しくて、忘れられそうにない。

今まで、死後の世界に想いを馳せたことはなかったけど、きっと死後の世界があって、それはとてもよいところで、最期の最後まで頑張った父が、楽しく、穏やかに過ごせることを願っている。そして叶うならば、いつか私も父の元に行って、言えなかった言葉、直接父に伝えたい。

私たちが小学生の頃に家出して、戻ったのは私が18ぐらいだったか、一人暮らしを始める前。共に過ごした時間は短く、いない期間が長かったこともあり、戻っても対外的には父の存在は無いことにしていた時期があったりと、私たち家族はいわゆる普通とは違っていた。父が戻っても、接し方が分からなかった。結局最後まで(笑)それでも、私は父が大好きだったんだな〜と、しみじみ感じる。

父のお陰で、もう一つ、日々を大切にできそうな気がする。いつかの中医学の講座で、私たちは、父と母でできていると聞いた。私の半分は父であることを感じ、私も懸命に、生き切ろうと思う。

お父さん、大好き。
バーイ、またね。


#父 #癌 #ksanayogaand


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ksana.

ksanaとは、刹那 極めて短い時間、瞬間 "今、この瞬間"を大切に

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